深呼吸と水で心拍を抑えても、ペースが同じなら、体は壊れていきます
こんな場面を想像してみてください。トライアスロンのレースの途中、バイクを踏んでいたら、心拍計の数字が急に跳ね上がった。ペースは変えていないのに、です。または急に心拍が上がらなくなってペースが落ちてしまった場合などです。
焦りますよね。心拍が大きく上下すると、体には大きな負担がかかります。そこで、走りながらできることをやります。無理やり深く息を吸う。浅い呼吸を繰り返すなど。すると、数字は少し治る。短期的には、ちゃんと効くんです。
今年の円相場のニュースを見ていて、私はこの場面を思い出しました。
27兆円は、走りながらの深呼吸
まず数字から見ておきましょう。
為替介入というのは、国が市場でお金を動かして、為替レート(円とドルの交換比率)を動かそうとすることです。円安を止めたいときは、国が持っているドルを売って円を買います。円を欲しがる人が増えるので、円の値段が上がる、という理屈です。
この介入が、2026年は桁違いでした。GWの3回で約11.7兆円、7〜8月で約15.4兆円。合わせて約27.1兆円で、年間では過去最大です。7月末には、日本とアメリカが一緒に円を買う「協調介入」まで出ました。円を買う方向の協調は、1998年6月以来、約28年ぶりです。
163円台まで進んでいた円安は、いったん155円台に戻りました。ただ、その後も一時160円台をつける場面があって、専門家の間では「時間稼ぎ」という見方が多いようです。
27兆円というのは、日本人1人あたりにすると約22万円分の大きさです。ただし、これは税金を使って消えたお金ではありません。国が持っているドル(外貨準備)を売って作ったお金です。ということは、補給に使える水にも限りがあります。ボトルの中身は、無限じゃないんです。
私は、介入を「ペースはそのままで、走りながら呼吸で解決しようとする」ようなものだと見ています。急な心拍の跳ね上がりなどを抑える意味は、確かにあります。でも、ペースが変わらないなら、体への負荷は続きます。
心拍が高い。でも、原因は一つじゃない
ここで、レースや運動中に実際に起きることを思い出してください。心拍が変動する時、原因はいくつもあります。
呼吸が乱れて、過呼吸になっている。ハンガーノック(体にためた糖分が尽きる、いわゆるエネルギー切れ)を起こしている。熱中症になりかけている。逆に、スイムのあとや雨で体が冷えて、低体温症になりかけている。水だけを飲みすぎて、体の塩分が薄まってしまうこともあります。
やっかいなのは、心拍計の数字だけでは、どれなのか分からないことです。しかも、処置が正反対になることがあります。熱中症なら冷やす。低体温なら温める。原因を取り違えると、深呼吸どころか、逆効果になるんですよね。
日本経済の心拍も、同じように分けて考える必要があります。たとえば、こんな具合です。
一つ目は、走り出しの緊張のような、一時的な乱れ。二つ目は、水や栄養が足りない状態、つまり国の稼ぐ力や、人手、投資が足りないこと。三つ目は、暑さや寒さのような外の環境、つまり中東情勢やアメリカの金利です。四つ目は、そもそもペースが速すぎる、つまり本来の国の実力以上にお金を使っている状態です。もちろん、これは私の整理で、正解ではありません。
政府は、円安を「投機的な動き」で、経済の基礎条件を反映していないものと説明しています。つまり一つ目の「一時的な乱れ」と見ているように、私には聞こえます。一方で、民間の運用会社のレポートは、日米の実質的な金利の差が大きいことを、基礎条件から見た円安の一因として挙げていました。つまり二つ目や三つ目です。四つ目を指摘する人もいます。
どれが当たっているかは、私にも決めきれません。一時的な要素が、ゼロではないでしょう。ただ、決めつけるのは危険だと思うんです。深呼吸で治らないなら、別の原因を探す。その切り替えが遅れるのが、一番こわいところです。
ここで、もう一つ心拍の話をさせてください。最大心拍数(全力で走ったときの心拍の上限)の目安として、「220から年齢を引く」という式が有名ですよね。これは1970年前後に、研究者のフォックスとハスケルが、小さくて偏ったデータに合わせて示した目安です。あまりに手軽なので、まるで物理法則みたいに広まりました。2001年に田中弘文さんたちが、351件の研究、約1万9千人のデータで見直して「208引く0.7×年齢」を提案しています。それでも、個人差は前後20拍ほどあります。一つの数字で人を測りきれない、という話です。
自己ベストより、完走を
レースでは、一度止まってでもリカバリーしないといけない場面があります。それなのに、続けてしまって、リタイアになることがあります。トライアスロンではDNF(Did Not Finish=完走できなかった)と言いますね。
その典型が、自己ベストへのこだわりです。ここまで来たんだから、この目標タイムを守りたい。その気持ちが強いほど、体のサインを「一時的なもの」と思い込みたくなります。昔から「命あっての物種」と言いますが、レースも国も同じだと思うんです。
ここで、あなたに三つ聞かせてください。
一つ目。テストの点(心拍)が上がらないとき、あなたは「もっと頑張る」(深呼吸)だけで乗り切ろうとしていませんか。睡眠が足りないのか、基礎が抜けているのか、やり方が合っていないのか。原因を分けて考えたことはありますか。
二つ目。財布が苦しくなったとき、「今月だけだ」と決めつけていませんか。使いすぎなのか、収入が足りないのか、急な出費なのか。原因が違えば、対処もまったく違います。
三つ目。あなたには、「やめたら負けだ」と思って、意地で続けていることはありませんか。それは自己ベストのためですか。それとも、本当に走りたい道のためですか。
八割は、楽な強度で続ける。そして、自分の心拍を観察する習慣を、仕組みにしておく。毎週日曜に5分だけ、勉強とお金を振り返る、くらいでいいんです。そのぶん、残りの二割に本気を集中させる。その二割には、「一度止まる勇気」も含めておいてください。
持久系のトップ選手は、練習時間の約8割を楽な強度で、約2割をきつい強度で過ごしている人が多い、と報告されています。ノルウェーで研究する運動生理学者ステファン・サイラーの調査です。楽に続ける八割があるから、きつい二割が生きるんですね。
世界をあるがままに見るのは、ちょっと勇気がいります。心拍計の数字を、そのまま受け止めることですから。そして、政府と民間で見立てが違うように、原因の見方は一つじゃありません。異なる見方を並べて、冷静に切り分ける。それが、長く楽に走り続ける人の共通点だと思います。
――深呼吸で治らない心拍には、別の原因がある。