よく言えばナラティブ、悪く言えばオカルト――政府の成長投資を4つに仕分けてみる

正直に言うと、私は「やめ時」を決めるのがとても苦手です。

「もう少し続ければ芽が出るはず」と思って、ずるずる続けたことがいくつもあります。だから今日の話は、人ごとではないんです。

2026年7月、政府は「日本成長戦略」を閣議決定しました。AI・半導体、造船、量子、核融合など17の分野から62の製品・技術を選び、2040年度までの15年間に、官民あわせて370兆円を超える投資を見込むという計画です。

この370兆円は政府が配るお金ではありません。民間投資も含めた15年間の累計です。それでも、現在の日本の年間GDPの半分を超えるほどの大きな数字です。

これを見て、私はこう思いました。

よく言えばナラティブ。悪く言えばオカルト。

ナラティブ、つまり「物語」は悪者ではありません。

ノーベル経済学賞を受賞したロバート・シラーは『ナラティブ経済学』で、人々の間に広がる物語が、消費や投資などの行動を通じて実際の経済を動かすことを論じています。

問題は、その物語が「外れたら、外れたと言えるか」です。

哲学者カール・ポパーは、科学的な理論には、それが間違っていることを確かめられる可能性が必要だと考えました。これを「反証可能性」といいます。

どんな結果になっても説明を後付けでき、決して「外れた」と認めない物語。

ここでは、それをあえて「オカルト」と呼ぶことにします。

お金の使い道を4つに分けてみる

では、成長投資を4つの箱に仕分けてみましょう。

1.投資過剰

一つ目は「投資過剰」です。

民間がすでに競争し、投資している分野に、あとから国がお金を積むものです。アニメやゲームなどのコンテンツ、民間が巨額の投資をしているAIの一部などが、ここに入る可能性があります。

困るのは、民間の成果と政策の成果を区別しにくくなることです。

1960年代、通産省、いまの経済産業省は、自動車産業を集約し、新規参入を制限する構想を進めました。その象徴が、通称「特振法」と呼ばれた法案です。

これに強く反発した一人が本田宗一郎でした。

法案は成立せず、ホンダは四輪車に参入し、その後、世界的な自動車メーカーになりました。

もちろん、これだけで「政府は産業政策をするべきではない」とは言えません。

ただ、勝ち筋は、国が選ぶ前に民間がもう走り始めていることがあります。

そこへ国がお金を入れるなら、「その公的資金がなければ起きなかったことは何か」を説明できなければなりません。

2.延命投資

二つ目は「延命投資」です。

本来なら市場から退くはずの企業を、融資や補助金などによって生かし続けるものです。経済学では、こうした企業を「ゾンビ企業」と呼ぶことがあります。

経済学者のリカルド・カバレロ、星岳雄、アニル・カシャップは2008年の研究で、1990年代の日本では、ゾンビ企業の存在が健全な企業の投資や雇用の伸びを阻害していた可能性を示しました。

英語圏には、

「政府は勝者を選ぶのが下手だが、敗者は政府を選ぶのが上手い」

という趣旨の皮肉があります。

出どころは必ずしも明確ではありませんが、なかなか考えさせられる言葉です。

産業政策で怖いのは、失敗することそのものではありません。

失敗した企業や事業が、政治的な理由によって退出できなくなることです。

3.負け筋投資

三つ目は「負け筋投資」です。

ここで考えてみたいのがラピダスです。

ラピダスは最先端級の2ナノ半導体を2027年度後半から量産する計画を掲げています。政府は2027年度までに、累計約2.9兆円規模の支援を計画しています。

もちろん、成功する可能性はあります。

だから問題は「技術がすごいかどうか」だけではありません。

本当に買ってくれる顧客がいるのか。

量産時に十分な歩留まりを実現できるのか。

競合企業とのコスト競争に耐えられるのか。

完成したころに市場や技術の前提が変わっていないか。

ここまで含めて、投資です。

三菱重工のジェット旅客機「スペースジェット」は、約1兆円規模の開発費を投じたとされながら、2023年に開発中止となりました。

ただし、こうしたプロジェクトには、安全保障や技術基盤を維持するための「保険」という意味もありえます。

それなら、そう説明すればいいと思うんです。

採算だけでは説明できない安全保障上の価値があるなら、その価値と費用を分けて考える。

そして保険なら、払える保険料の上限を最初に決めておく。

なぜなら、上限がないと、つぎ込んだお金が惜しくなってやめられなくなるからです。

超音速旅客機コンコルドの開発になぞらえて、こうした心理は「コンコルド効果」とも呼ばれます。

すでに使ってしまったお金は、これからの判断には本来関係ありません。

でも人間は、なかなかそう考えられない。

国も会社も個人も、ここは同じなんだと思います。

4.本来の投資

四つ目が「本来の投資」です。

たとえば量子や核融合などの基礎研究、防災とインフラの維持、教育と人材づくり、そして新しい技術や事業を阻害している規制の見直しです。

共通点は三つあります。

成果が社会に広く波及すること。

民間企業だけでは十分に投資しにくいこと。

そして、たとえ個別のプロジェクトが失敗しても、知識や技術、人材が社会に残ることです。

細菌学者ルイ・パスツールは1854年の講演で、

「偶然は、準備された心にしか味方しない」

という趣旨の言葉を残しています。

研究や教育への投資は、この「準備された心」を国全体につくる仕事なんだと思います。

足りないのは、お金じゃない

では、何が足りないのか。

私は、お金より「仕組み」だと考えています。

まず、任せる人への権限です。

アメリカのDARPA(国防高等研究計画局)は、任期付きのプログラムマネージャーに大きな裁量を持たせ、失敗する可能性の高い研究にも資金を配分します。

重要なのは「何にいくら配ったか」だけではありません。

誰が判断し、誰が責任を持ち、途中でどう変えられるかです。

次に、撤退の基準。

「いつまでに、何ができなければやめる」

これを、始める前に書いておくことです。

今回の成長戦略では、複数年度の予算措置を基本とし、経済安全保障上とくに重要な分野では、特別会計による別枠管理も検討されています。

長期の研究開発を安定して続けるには意味のある仕組みです。

一方で、制度設計によっては、一度始めたプロジェクトを止めにくくなる危険もあります。

だからこそ、「継続する仕組み」と同時に「撤退する仕組み」が必要なんです。

それから、お金以外の支え。

規制を見直す。

国が最初のお客さんになる。

人が企業や研究機関を移りやすくする。

失敗例を公開し、次の挑戦に使える知識にする。

実は今回の戦略にも、こうした考え方は含まれています。

ただ、370兆円という巨大な数字の陰に隠れてしまっているように見えます。

そして最後に、成果を測る人と、お金を出す人をできるだけ分けることです。

経済学者チャールズ・グッドハートの名前に由来する「グッドハートの法則」は、指標そのものが政策目標になると、その指標が現実を正しく映さなくなる危険を教えています。

「投資額370兆円」が目標になった瞬間、370兆円使うこと自体が成功になってしまう。

見るべきなのは、使った金額ではありません。

その結果、何が変わったかです。

17分野は多すぎるのか

「17分野は多すぎる」という批判もあります。

私は半分だけ賛成です。

研究の段階なら、広く張るのはむしろ合理的です。

未来の勝者を正確に当てられないのなら、最初は複数の可能性に賭けた方がいい。

問題は広さではありません。

やめ時を決めないまま広いことです。

10個試して、8個やめて、2個に集中する。

それなら分散投資です。

10個試して、全部に追加予算を出し続ける。

それは分散投資ではありません。

撤退できないだけです。

あなたの最初の3年に置き換えると

ここで、あなたに三つ聞かせてください。

一つ目。

いま頑張っていることに、撤退の基準はありますか。

「この仕事を3年やって向いていなければ、方向を変える」

そのくらいでいいんです。

基準のない努力は、自分自身への延命投資になりがちです。

二つ目。

あなたは、自分に権限を渡していますか。

言われたことだけをこなす毎日は、国がすべてを決める産業政策に少し似ています。

小さくてもいいので、自分で選び、自分で試し、自分で失敗できる範囲を持っているでしょうか。

三つ目。

お金以外の支えはありますか。

相談できる先輩。

会社の外にいる友人。

失敗を失敗として話せる場所。

給料や資格より、こうしたものが最初の3年を左右することも多いのではないかと感じています。

全部を本気でやる必要はありません。

仕事の八割は、仕組みにして楽に回せばいい。

残りの二割を、まだ成果は見えないけれど、自分の世界を広げる挑戦に使う。

そのかわり、その二割には「やめ時」を決めておく。

試してみる。

外れたら、外れたと認める。

そして、また次を試す。

それができれば、あなたの物語はオカルトではなく、ナラティブのまま進んでいけます。

世界をあるがままに見るのは、ちょっと勇気がいります。

自分の賭けが外れたと認めるのは、もっと勇気がいる。

でも、その勇気を持っている人ほど、実は楽に生きている気がするんです。

最後に、私自身の経験から一つだけ言わせてください。

後講釈を繰り返すビジネスやプロジェクトが成功した試しは、私の知る限り一度もありません。

うまくいかなかったとき、

「本当は狙いどおりだった」

「別の成果が出ている」

「予算が足りなかった」

「もう少し続ければ結果が出る」

「みんなの気持ちが足りなかった」

と、あとから説明を足していく。

そうやって結果に合わせて物語を書き換え続けたものは、どこかで現実と辻褄が合わなくなります。

逆に、外れを外れと認めて早めに手を引いた人は、そこで終わるわけではありません。

人も、お金も、時間も残る。

そして、それを次の挑戦に使える。

だから私は、失敗することより、失敗を定義できないことの方が怖いと思っています。

ナラティブには、「こうなったら自分は間違っていた」と言える出口がある。

オカルトには、その出口がない。

後講釈は、ナラティブがオカルトに変わる入り口なんだと思います。

――やめ時を決めた夢だけが、夢でいられる。