序章:「理解」とは何か
「人は見たいものしか見えない」とよく言われるが、それは思い込みの恐ろしさを端的に表す言葉だ。一方で、同じ現象を見て、そこから普遍的なルールや構造を読み取れる人もいる。彼らは「悟性」を働かせている。
この二つの概念――「悟性」と「思い込み」――は、どちらも私たちの認識を形作るものだが、その性質と結果は大きく異なる。本稿では、両者の違いを実例とともに明らかにしながら、私たちがいかにして思い込みから自由になり、悟性を磨いていけるかを考えてみたい。
第一章:定義と性質
1.1 思い込みとは?
思い込みとは、自分の経験や感情、既存の価値観を基盤にして形成される認識のフィルターである。それは主観的であり、しばしば検証されることなく信じられる。「~に違いない」「どうせ~だろう」という断定的な推論に現れる。
たとえば、ある上司が部下に厳しい態度を取っていたとしよう。それを見た第三者が「この上司はパワハラ体質だ」と即断すれば、それは思い込みである可能性がある。そこに背景事情や他の文脈があるかもしれない。
1.2 悟性とは?
カント哲学の文脈で言えば、悟性(Verstand)は「感性によって得られた直観を、概念に基づいて整理・体系化する能力」である。つまり、目の前の現象を超えて、その背後にある法則や構造を見出す力だ。
例えるなら、悟性は「現象のパターンを見抜く知性」であり、思い込みは「自分の主観に合致するものだけを抽出する傾向性」とも言える。
第二章:実例に見る違い
2.1 社会的事象の読み違い:コロナ禍の初期対応
2020年のコロナ禍初期、多くの人々が「このウイルスはただの風邪」と信じた。SNSでは「陰謀説」や「ワクチンの危険性」が拡散された。これは思い込みの典型例であり、情報の選択的受容が強く働いた。
一方で、感染症学者や一部の政策担当者は、感染の速度、致死率、病床使用率といった客観データに基づき、早期から危機を認識していた。彼らは悟性を用いて、未知の現象を論理的に解釈し、予測モデルを構築した。
2.2 個人レベルの誤認:ビジネスの失敗と成功の原因
ある中小企業の社長が「うちは広告費に投資してきたから成長した」と語ったとしよう。しかし実際には市場全体の拡大や特需、他社の撤退など、外部要因の影響も大きかった。
このとき、自社の成功を「自分たちの努力のおかげ」とだけ捉えるのは思い込みである。一方、外的要因も加味し、今後の持続性や競合の動きも読み取る視点は悟性に属する。
2.3 人間関係におけるすれ違い
友人が突然距離を置いたとき、「自分が嫌われたに違いない」と感じることはよくある。しかし、実際にはその友人が家庭内の問題で苦しんでいたというケースもある。
自分を中心に考える思い込みに対して、相手の背景や心情を推測し、情報が足りなければ保留するという姿勢は悟性による判断である。
第三章:思い込みが強化されるメカニズム
3.1 バイアスの働き
・確証バイアス(confirmation bias):自分の信じたい情報ばかりを集めてしまう傾向
・正常性バイアス(normalcy bias):異常な状況を過小評価してしまう傾向
・アンカリング(anchoring):最初に得た情報がその後の判断に強く影響する傾向
これらはすべて思い込みの温床となる。悟性を発揮するには、こうしたバイアスに気づき、距離を取る訓練が必要だ。
3.2 SNS時代の情報フィルター
アルゴリズムはユーザーの「好みそうな情報」だけを表示する。これは思い込みを強化しやすい環境を作っている。
だからこそ、自ら異なる意見に触れる努力――つまり「自分の知らないことを知る意志」が、悟性を育てる第一歩となる。
第四章:悟性を育むための習慣
4.1 「仮説」と「検証」のセット思考
ある現象について「こうかもしれない」と思ったときに、それを仮説とし、データや他者の視点によって検証する。これにより思い込みから脱し、認識が柔軟になる。
4.2 反対意見にあえて触れる
新聞なら保守系・リベラル系の両方を読む。SNSでは反対意見のアカウントをフォローする。こうした多面的な情報の摂取が、思い込みを相対化し、悟性を刺激する。
4.3 メタ認知を育てる
「自分はいま何を前提にしているか?」「この考えは、どんなバイアスに影響されているか?」といった、自分の思考を観察する力――これがメタ認知である。
悟性とは、ある意味で「自分の思考の限界を知る力」でもある。
結語:私たちは「何を見るか」ではなく「どう見るか」で決まる
悟性と思い込みの違いは、「問いの立て方」とも言えるだろう。思い込みは答えを先に用意してしまいがちだが、悟性は問い続ける。
私たちが目指すべきは、即断せず、問いを持ち続け、思考を深めていく生き方だ。
現代は「情報を持っていること」よりも、「どう扱うか」のほうが価値が高い時代である。だからこそ、思い込みから自由になり、悟性を磨くことが、個人の知性と社会の健全性を支える鍵となる。
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